修学旅行で沖縄を訪れると、平和学習としてガマ見学をすることがあります。ガマ見学は、民間人が巻き込まれた沖縄戦を知る貴重な学習の場。そこで、修学旅行を前に知っておきたい沖縄のガマのことを紹介しましょう。
そもそもガマって何?
自然にできた洞窟のことを、沖縄では方言で「ガマ」と言います。沖縄には、様々なガマがあるのですが、その多くは石灰岩で作られた鍾乳洞。そのため、中に入ってみると、かなりの広さがあります。
防空壕とガマの違いって何?
中には、防空壕との違いがあまり分からないという方もいらっしゃるのではないでしょうか?
違いとしては、「ガマ」や「アブ」は自然にできた鍾乳洞や洞窟なのに対し、防空壕は一部をコンクリートなどで補強したシェルター的な施設なんです。しっかりと補強されている防空壕は、軍事施設として使用されることが多かったといいます。
子どもの頃、夏休みのイベントで防空壕見学へ毎年行っていたのですが、私が見た防空壕はコンクリートで補強はされていませんでしたが、廊下があって小部屋がいくつかあってと・・・ガマ(自然な洞窟)とは違って人工的に彫られたような造りをしていたのを覚えています。そこは、日本軍の方だけでなく、民間人も避難(生活)していたというお話しでした。
どうして沖縄戦にガマが使われたの?
沖縄は、日本で唯一、アメリカ軍と日本軍による地上戦が行われた場所です。そのため、沖縄に住む多くの民間人が、この戦争に巻き込まれました。
普段生活している場所で戦争が起きているわけですから、当然・・・住民は避難しなければいけません。しかも、「敵の兵士に見つかったら殺される」「女の子が捕まったら兵士たちに辱めを受ける」などといわれていましたから、ただ避難をするだけでなく、敵に見つからないように隠れる必要がありました。
そんな住民たちの避難場所として、ガマは格好の避難場所でした。入口は小さいのですが、中に入ると広い空間が広がっているガマは、集落の住民たち全員が入ることが出来たため、住民の避難場所として適していたのです。
住民の避難場所に適したガマほど日本兵に奪われていく
沖縄本土が戦場ですから、実際に戦う日本兵も、アメリカ軍に見つからないように隠れる必要があります。特に、入口が狭く、周りから見つかりにくいガマは、兵士たちにとって格好の軍事拠点になりました。
もちろんこのようなガマはすでに住民たちが避難していたのですが、日本兵たちはお構いなしにガマの中に入り込み、ガマを占領してしまいます。さらに占領したガマを軍事拠点にすると宣言すると、先に避難していた住民たちをガマの外に追い出してしまいます。そのため、ガマの外に追い出された住民たちの多くが、そのまま命を落としてしまいました。
怪我をした兵士たちの野戦病院として使われたガマ
平和学習のガマ見学として注目されるのが、野戦病院として使われたガマです。
野戦病院では、戦闘によってけがをした兵士たちを治療するため手術台のほか、ケガをした兵士たちを横に寝かせるためのベッドも必要です。しかも、敵に見つからないようにするためには、外に明かりが漏れないようにする必要もあります。このような条件を満たしていたのも、沖縄のガマでした。
平和学習のガマ見学で見ておきたいポイント
沖縄戦を知ることが出来るガマには、大きく分けると、「民間人の避難場所」「日本兵の軍事拠点」「負傷した兵士の野戦病院」の3つに分かれます。ガマの使用目的によって、沖縄戦を知るポイントがあります。
民間人の避難場所としてのガマでの見学ポイント
民間人の避難場所として使われていたガマでは、集団自決という悲惨な事件が起きました。
当時の日本では、「軍国主義」という考え方があったことが、集団自決を引き起こす大きな要因となっているので、悲惨な事件の現場を訪れながら、戦争と人の心理について考えてみると、より深く平和について考えることが出来るでしょう。
有名なチビチリガマの集団自決
読谷村のサトウキビ畑の中にあるチビチリガマは、多くの住民が集団自決をしたガマとして有名な場所です。
周辺に住んでいた住民140人余りが避難していたチビチリガマでは、アメリカ軍の本島上陸地点に近かったこともあり、上陸してすぐに、アメリカ軍にガマの存在が見つかってしまいます。
アメリカ軍の兵士たちは、ガマの中の住民たちに投降を呼びかけますが、「捕まったら大変な目に遭う」と教え込まれていた住民たちは、ガマの中でパニックを起こします。
ガマの中には、満期を終えて軍を除隊した南方帰りの高齢の男性や、中国戦線で住民たちが残酷な殺され方をしたことを知る従軍看護婦もいたため、「生きているよりも死んだ方がマシだ」と住民たちに話し、一緒に死ぬことを提案します。
最初の10数人は、従軍看護婦が持っていた毒薬を使って自決しますが、残った住民たちは、布団に火をつけ窒息死しました。自らガマを出て投降した数十人の住民たちは生き延びたものの、最終的にチビチリガマの集団自決では、84人が命を落とし、そのうちの約半数が、12歳以下の子供たちでした。
野戦病院として使われたガマでの見学ポイント
野戦病院として使われたガマでは、沖縄の女子学生たちによって構成された学徒隊たちが、患者の治療や病院の雑務に充てられていました。劣悪な環境の中での仕事だけでなく、危険なガマの外に出て、アメリカ兵にガマが見つからないように遠くで飯炊きをさせられたりもしました。
さらに敗戦が確実になってくると、突然、野戦病院は閉鎖され、動員されていた学徒隊たちに解散命令が出ます。行き場をなくした彼女たちの多くは、解散命令からわずか1週間の間に命を落とします。のちに、学徒隊全体の死亡者の80%が、この1週間でなくなったことがわかっています。
野戦病院でのガマでは、同世代の女子学生たちが多く犠牲になっています。「もしも自分が同じ立場だったらどうだっただろう?」という目線で見学してみると、沖縄で起きた戦争について深く考えることが出来ます。
2017年9月チビチリガマが荒らされる
2017年9月12日、80人以上が集団自決したと言われている読谷村にあるチビチリガマが、少年たちの手によって荒らされたというニュースが報じられました。全国各地から届いた千羽鶴が壊されるだけでなく、遺骨が集められていた場所なども荒らされていたという事で、今回の事件で平和や戦争について改めて考えさせられる事となりました。
チビチリガマを荒らしたのは16歳~18歳の少年4人で、那覇地方・家庭裁判所沖縄支部からは保護観察処分の決定が下りました。
少年たちの世代になると、祖父母も戦争を体験した事のない世代になり、周囲の大人達から戦争についての話を聞く機会が滅多になかったのではないかと思います。筆者でさえ、祖母は戦争当時4~5歳だったという・・・ギリギリ知っている人がいるという年齢です。
幼いころに体験した戦争の記憶は、未だに忘れる事が出来ないそうで、戦争や核の話題などがニュースで取りざたされると、戦争の怖さや平和の尊さなどを繰り返し話を聞かせてくれます。
チビチリガマを荒らした少年たちは、周りに戦争の歴史やチビチリガマで起こった出来事を話してくれる人がいなかったのでしょう。今後は、少年たちのように戦争を知らない子達が増えていきます。
そうなると、やはり・・・最も大切なことは、平和についての学習や戦争でどのような事が起こったのかという事、戦争の恐ろしさを伝えていく人が必要だという事。今回の事件で、戦争について語り継いでいく人が必要だと、強く感じました。
戦争について知ることは今後の平和に繋がる
沖縄県は「日本で唯一、アメリカ軍と日本軍による地上戦が行われた場所」で、多くの市民が巻き込まれ、犠牲になってしまいました。
そんな沖縄でさえも、ガマや壕に関して、あまり詳しくは知らないという子は年々増えています。
多くの方々が命を落とした戦争は、恐ろしく悲惨であると・・・今後もより多くの人たちへと伝えていく事が、平和な未来へと繋ぐ鍵だと考えています。
平和学習は大切なイベントですが、中には興味のない子もいます。そんな子達に、少しでも興味を持ってもらえるよう・・・大人としても「努力や工夫が必要だな。」と感じました。
ちなみに、「ガマ」は横穴の洞窟の事を言います。縦穴の洞窟は「アブ」と呼ばれているんですよ!