沖縄には、民間信仰の担い手としてユタがいます。ユタは、これまでも様々な問題があるとし、政治的に排除されてきました。それでも残るユタ。いったいどんな歴史がユタにはあるのでしょうか。
ユタが誕生した理由にはノロの存在がある
神への祈りとともに生きる国として、今でも、様々な拝所で祈りをささげる人々の姿を見かけることが出来る沖縄。そのため沖縄では、こうした神への祈りを取り仕切る「ユタ」と呼ばれる人の存在が重要視されます。
では、一体ユタは、いつから沖縄で存在するようになったのでしょうか?・・・この疑問を解決するために、まずは、「ノロ」と呼ばれる神官について触れてみる必要があります。
ノロとは一体どんな存在なの?
ノロとは、琉球王朝時代、王府から正式な辞令によって任命された官人のことを言います。
政治と宗教が強く結びついていた琉球王朝では、政治的な最高権力者を国王が務め、宗教の最高権力者は聞得大君(きこえおおぎみ)が務めていました。この聞得大君の組織系統に属するノロは、領土内に存在する集落を単位に配属されており、一般的に世襲制で務めていました。
聞得大君とは
聞得大君には、基本的に国王の妻である王妃が務めてきました。ただし、これはあくまでも「王族の女性が務める」という前提に基づいているためであり、場合によっては王女や母后が務めることもありました。
聞得大君直属の「オオアムシラレ」
宗教の最高権力者である聞得大君の直下には、「オオアムシラレ」と呼ばれる三人の女性がいました。
彼女たちには、一年を通して行われる様々な国の祭祀を、総括的に実行していく役割があります。
ノロは現代でいう公務員待遇だった!?
基本的に世襲制だったノロですが、ノロになるためには、条件があったそうです。
もちろん集落内で徳の高い女性であるということは大切なことなのですが、それ以外にも、王国に功績があった女性であることや、「ニーガン(根神)」と呼ばれる集落発祥の家から生まれているということも必要な条件でした。
こうした厳しい条件があるため、ノロは世襲で務めるのが一般的でした。
そんなノロは、王国が直接任命した神官。今でいえば、国家公務員です。ですから、国から田や畠(はたけ)といった財産が支給されます。こうした田や畠のことを、「ノロ田」または「ノロ畠」といいます。
ノロの仕事とは?
ノロには、主に5つの仕事があります。それが、「国王の長命」「王国領内の平和」「五穀豊穣」「風雨」「海上往来の安全」です。
ユタはどうやって誕生したのか
ユタが、いつどうやって発生したのかについては、今のところ定説がありません。一般的に「ノロ分化説」「根神分化説」「クディ分化説」の三つがあります。
ノロ分化説
羽地朝秀(向象賢ともいう)の政治改革によって政教分離が行われた際、公儀の祭祀を司る神職としてのノロは保護されたものの、家族レベルの祭祀については、排除・弾圧の対象となりました。
この弾圧の対象となったのが、ノロから切り離された神官たち。彼女たちは、その後、ユタとなったといいます。
根神分化説
集落には、それぞれ「ニーヤ(根屋)」と呼ばれる、集落の草分けとなった家があります。こうした草分けとなった家は、「ニーガン」から生まれた家と考えられ、集落の中でも重要な地位をつとめます。
このニーヤ出身の女性が、のちにユタとして祭祀に関わるようになったというのが、根神分化説です。
クディ分化説
クディとは、門中のことを言います。この門中には祖先神がおり、その祖先神に仕える女性神官をユタとするのが、クディ分化説です。
ノロとは全く違う存在がユタ
ユタ発生の起源については諸説ありますが、要するに、「ノロとは全く別の存在=ユタ」ということには変わりはありません。
公儀としてのノロは、国の依頼に対して祭祀を行うのですが、ノロとは全く異なる存在のユタは、依頼者の求めに応じて個人的に祭祀を行うという点に違いがあります。
他にも、ユタ発生には「民間信仰の領域に特化したのがユタである」という説もあります。
政権によって弾圧の対象となったユタ
ユタは、これまでも度々、政権によって弾圧されてきた歴史があります。これは、そもそも琉球王国が、政教一致であったことに由来します。
薩摩藩による政教分離
島津侵攻によって薩摩藩の支配下に置かれた琉球では、「掟十五ヶ条」として聞得大君を頂点とした神女組織を弱体化させる政策が取られます。
もともと琉球王国は、政教一致の体制を取ってきた王国です。そのため、神女の政治に対し発言力は非常に強く、こうした体制は、薩摩藩にとっては都合の悪い事実でした。
そのため、薩摩藩は、神女組織の頂点である聞得大君の地位を下げることにします。こうすることによって、政治と対等な立場を保有していた宗教を格下げし、これらに付随する琉球固有の宗教勢力を弱めることにします。
さらに、薩摩藩の国教である真言宗と禅宗を、琉球王朝に対して強要することによって、政治と密着した関係を築いてきた神女達の排除を行ったのです。
羽地朝秀の政教分離
16世紀中ごろに活躍した琉球王国の政治家・羽地朝秀によっても、政教分離を目的とした神女組織に対する政治政策は行われています。
羽地朝秀の政教分離は、薩摩藩による政策よりもさらに露骨なものでした。
なんと、これまで王妃や王女など王族出身の女性が務めていた聞得大君の位牌を、王妃の次の位へと下げてしまいます。これは明らかに、政治と宗教の格差を表すものです。
さらに、羽地朝秀は、国王の神事に関する行事参加に制限を加え、様々な集落で行われる祭礼に対しても禁止または経費の削減を命じます。
最も露骨な弾圧を受けたのは、離島の神女たち。羽地朝秀は、彼女らに対し、朝見を禁止してしまいます。こうした羽地朝秀の政教分離政策によって、琉球の神女組織は、かなり弱体化します。
薩摩藩の神女組織弱体化をさらに加速させるユタ弾圧
薩摩藩の占領によって王国内の社会情勢が悪化していたこの時代、王国の体制復活は急務となっていました。
ところが、それまでの政教一致政策によって、民間にまで浸透していた神女組織とその固有信仰は、こうした王国の政策にとって非常に邪魔な存在です。なにしろ、国の命令に従うよりも、神女達の呪詛の影響の方が恐ろしいわけですから、こうした宗教の力を封じ込めなければ、政策の実現は困難になります。
そこで羽地朝秀は、国家の最高レベルによって、民間におけるユタの力を排除していきます。もちろん、ユタへの弾圧は厳しいものでしたが、それだけでなく、ユタを信仰する民間信者への警告も行われました。そしてこのユタ弾圧は、中央から地方、離島へと拡大していきます。
羽地朝秀の政策では「トキ」も排除
「トキ」とは「トキノウフヤク(時之大屋子)」の略で、国政に関与する男性の覡(かんなぎ)のことをいいます。
羽地朝秀の政策以前も、歴代王府は幾度となく「トキ」の排除に努めようとしてきましたが、その度に彼らによる呪詛を恐れ、徹底することが出来ませんでした。これを徹底したのが、羽地朝秀でした。
蔡温による政教分離
18世紀に活躍した琉球王府の大政治家・蔡温によっても、政教分離を目的としたユタ弾圧は行われます。
蔡温は、20代の頃、中国に渡り、実学思想と陽明学を学んだ経験があります。蔡温の政治政策といえば、羽地大川の河川工事を伴う農業改革が有名ですが、王国内のモラルの向上に関する政策にも力を入れた政治家です。
なかでも、1732年に祭温が編集した『御教条』と呼ばれる道徳儀礼集は有名です。この『御教条』には、ユタの禁止を話題にするときに、しばしば引用される有名な部分があります。
『御教条』の一文では、ユタを禁止することになった理由が書き記されています。
「時与多之儀其身之渡世題目在色々虚言申立人相誑候付而堅禁制申付置候」とあるのですが、これを現代語に訳にしてみると、こうなります。「トキやユタは、自分の営利を第一の目的としていろいろな虚言を申し立て、人をたぶらかすことをしている。そのため、厳重に禁止することになった。」
こうした理由を掲げた蔡温は、さらに具体的にユタを禁止する理由を述べています。
死霊はいない
当時の人々の間では、病人が出るということは、その家に死霊や生霊が祟っていることが原因で起こるのだと考えられていました。そのため、そのことを祓うことが病気から回復する方法と考え、ユタに儀礼を依頼するというのが一般的でした。
これに対して蔡温は、「死霊や生霊が人を祟って病気を引き起こすのであれば、大国がすぐにそれを利用するはずである」と言い切り、「そうした事象がないのだから、死霊による祟りが起こるはずがない」と説明しています。
病にかかったら速やかに治療を受けなさい
さらに蔡温は、「病にかかったら祈祷を受けるのではなく、治療を受けなさい」とも述べています。
これは、現代医学の恩恵を受けている私たちからすれば、至極当然のことなのですが、医学が発達していないこの時代の人々にとっては、驚くような発言でもあるのです。
病気が原因で才能が開花する人もいる
蔡温は、病気が原因で、その後、それまでには考えられなかった能力や才能に目覚めることがあると解説しています。
たしかに、ユタとして目覚めることになる現象の一つに、原因不明の病というものがあります。病の後に、突然、昔のことを語りだしたり、読み書きができなかったのが突然書物を読めるようになるということがあります。
こうした事例は、現代医学によってもまだ解明されていないことも多いのですが、当時の人々にとっては、こうした現象はすべて霊による仕業ではないかと考えていました。
こうしたことも、ユタに依存する社会の一因になると考えた蔡温は、道徳書の中で、あえてこの部分に触れたのでしょう。
なぜ蔡温は、死霊についてあえて触れたのか
蔡温が庶民向けの道徳儀礼集に、なぜ死霊や生霊について触れたのかということについては、すべて、ユタと関係があると考えられます。
そのため蔡温は、一般庶民の死霊や生霊に対する畏怖の念が、民間信仰の使い手であるユタへの依存の背景にあると考えたのです。だからこそ、庶民に対する道徳儀礼集において、あえて死霊について触れ、こうした目に見えない迷信に惑わされてはいけないと諭したのです。
他にもユタを禁止する理由はある
蔡温は、「虚言を申し立てて人をたぶらかす」以外にも、「無駄な出費をさせる」「社会の妨げになる」「国家の妨げになる」ということをユタ禁止の理由に挙げています。とはいえ、こうした蔡温の考えは、人々の間で浸透しませんでした。
その理由はやはり、当時の人々の間で考えられていた世界観が、蔡温の考える世界観と根本的に違っていたことと、不思議な能力を持つユタに対して強い尊敬の念があったということなのでしょう。
琉球処分によって解体された琉球の神女組織
1870年代になると、琉球は、明治政府によって強制的に「沖縄県」となります。これが、琉球処分です。
この琉球処分は、琉球藩の象徴であった首里城を明け渡したということが有名になっていますが、その時に、もう一つの琉球王国の象徴が解体させられていたということはあまり知られていません。
実はこの時、琉球のもう一つの権力組織である神女組織が解体されたのです。これによって組織の頂点に立つ聞得大君やオオアムシラレの地位は廃止となりました。
県知事命令によってユタが禁止される
1881年(明治14年)には、当時の県知事によってユタ禁止の布告が出されたことが記録に残っています。
この布告から10年後の明治25年には、こうしたユタの処分や処罰を独立して行う裁判所が開設されます。
ところが、この独立裁判所で実際にユタが処分された例は一つもありません。それどころか、このユタ禁止は、あくまでも形式の実であり、自発的に処分が行われたということもほとんどなかったようです。
今もなお続くユタ問題
時の政権によってさまざまなユタ廃止政策が行われてきたものの、今もなお、その存在が沖縄文化の中に存在し続けている事実から見ると、そうした廃止政策は失敗に終わったとみるのが正しいのかもしれません。
そうはいっても、ユタに関する問題は、今でも沖縄の中でくすぶり続けています。
古から続く沖縄の民間信仰の担い手でもあり、文化継承に大きく貢献し続けているユタの存在は、県内においても賛否両論あります。この問題の原因がどこにあるのかを見極めるには、ユタが存在することになった沖縄の背景について、改めて考えてみることが必要なのかもしれません。