宮古島にある史跡といえば、久松漁港のすぐそばにある久松五勇士の記念碑。宮古島出身者であれば、誰もが知る久松五勇士ですが、全国的にはそれほどの知名度は・・・。では、彼らはどんな偉業を成し遂げたのか!?
久松五勇士とは何なのか?
宮古島の観光名所として必ず名前が挙がってくるのが、久松漁港。
この漁港は、全国で見られるような朝市が有名な漁港でも、特別日の出や夕日が美しい漁港というわけでもありません。それでも、宮古島の観光名所といえば、必ずその名前が挙がる観光スポットでもあります。
では、なぜ久松漁港が、宮古島の観光名所なのか?
それは、この地が、郷土の英雄となった「久松五勇士(ひさまつごゆうし)」の記念碑が建立されているからなのです。
そもそも久松漁港と久松五勇士の関係はどこにある?
久松五勇士というキーワードを検索すると、「久松五勇士顕彰碑」記念碑の場所に関する情報はたくさん出てきます。
ところが、その記念碑がそばにあるといわれる久松漁港を検索してみると、「釣り」に関する情報しかほとんど出てきません。・・・それもそのはずです。
この久松五勇士は、宮古島の英雄として、今でも人々の間で語り継がれていますが、あることがきっかけで、長い間、日本の歴史の表舞台に上がることが出来なかったからなのです。
郷土の英雄を生むきっかけとなったバルチック艦隊
久松五勇士が記録に登場するのは、1905年のことです。この時期に宮古島周辺で大きな事件の主役となったのが、ロシア海軍のバルチック艦隊でした。
このバルチック艦隊とは、日露戦争の折に、ロシア軍が編成した第二・第三太平洋艦隊のことを言います。
当時のロシアは、「帝政ロシア」といわれ、広大な領土と強力な戦力を有していました。帝政ロシアの戦力の要となったのが、黒海・バルト海・極東。この3地点を攻防の要とした帝政ロシアには、それぞれの拠点に同規模の3つの艦隊を保有していました。
帝政ロシア伝説の基礎を作ったバルト海艦隊
バルト海艦隊は、1703年に、ロシアをヨーロッパ列強の一員となるまでに引き上げたピョートル大帝によって編成された艦隊です。
初代司令官には、ノルウェー出身のオランダ人であるコルネリウス・クルイスが務め、1714年の「ハンゲの海戦」では、艦隊創設以来の初勝利を納めます。ここから、帝政ロシアの輝かしい海艦隊の歴史が幕開けとなります。
日本とロシア海艦隊との接点
ロシア海艦隊と日本軍が接点を持つきっかけとなったのは、1904年におこったロシアと日本との軋轢(不仲)でした。
同年2月になると、停泊中のロシア軍隊に対して日本の水雷艇が奇襲攻撃を起こし、これがきっかけとなって、日露戦争が始まりました。
バルチック艦隊登場
日本軍の奇襲攻撃によって日露戦争は開戦されましたが、開戦当時のロシア海艦隊は、苦戦を強いられます。
開戦の引き金となった2月8日の仁川沖海戦、戦艦ペトロパブロフスクが沈没した4月13日の戦闘、8月10日に起きた黄海開戦、同月14日におこった蔚山(うるさんやま)沖海戦によって、帝政ロシアの象徴とされたバルト海艦隊の戦力は失われていきます。
この状況を打開するために登場するのが、第二太平洋艦隊と編成され、のちに久松五勇士を生むきっかけを作ることになるバルチック艦隊の前身となった部隊です。
バルチック艦隊とはいったい何?
そもそもバルチック艦隊とは、ロシアのバルト海艦隊の第二・第三太平洋艦隊のことをいいます。
バルチック艦隊の誕生には、日本軍によって戦力を失ってしまったバルト海艦隊から、主力を引き抜き、新たに編成された「第二太平洋艦隊」の存在があります。
バルチック艦隊の主な任務は、極東方面への増派。そのため、この第二太平洋艦隊の司令長官には、当時の侍従武官であったロジェストヴェンスキーが務めます。
ちなみに彼は、のちに、第二・第三太平洋艦隊の総称であるバルチック艦隊の司令長官を務めた、帝政ロシア海軍の軍人です。
『坂の上の雲』にも登場するロジェストヴェンスキー
司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、愚将として登場するロジェストヴェンスキー。
小説の中の彼は、海軍軍人でありながら、一度も実戦に参加したことがなく、しかも、艦隊勤務経験もほとんどなかったのにもかかわらず、ニコライ二世の寵を受けたことによって、空前の大艦隊の司令長官となった愚将として登場します。
実際に、日本海海戦によって捕虜となり、終戦後に行われた軍法会議によって、「敗戦の責任は自分にある」と発言したロジェストヴェンスキー。
そんなロジェストヴェンスキーは、捕虜となった佐世保の海軍病院にて、東郷秀樹大将の見舞を受けます。この時、敵であるロジェストヴェンスキーに対して、東郷は、礼節を尽くした扱いをしたといいます。
敵に対しても礼節を貫く東郷の姿に、深く感銘を受けたロジェストヴェンスキーは、生涯にわたって、彼を尊敬し続けたといわれています。
久松五勇士、いよいよ登場!
久松五勇士が、ロシア海軍のバルチック艦隊と遭遇するのは、日露戦争開戦の翌年にあたる1905年5月23日のことです。
この日、バルチック艦隊は、帝政ロシアの命を受け、極東に向けて航行を続けていました。そんなバルチック艦隊の存在を、いち早く見つけたのが、那覇の帆船乗りをしていた「奥浜牛(ウシ)」という名の青年でした。
中国人と勘違いされたことで見逃された奥浜牛
存在に気が付いたのは、奥浜牛だけではありません。極東に向けて航行を続けていたバルチック艦隊の乗組員にも、彼の姿は確認されていました。
ところが、いざ捕らえようと近づいてみると、彼の姿は、乗組員たちが知る日本人とはあまりにも違うことに気が付きます。なんと奥浜牛は、当時の日本人には見られない独特の長髪をしており、船には、龍が描かれた大漁旗を掲げていました。
そんな姿を見たバルチック艦隊の乗組員たちは、彼を中国人だと勘違いし、そのまま見逃してしまいます。
無事に難を逃れた奥浜牛ですが、本土に向かっていくバルチック艦隊を見て、「何とかしてこの危機を人々に伝えなければ!」と必死の思いで、漲水港(現在の平良港)へ泳ぎ着きます。
日本を救え!使命を受けた5人の漁師たち
奥浜牛によって、間近に帝政ロシアの艦隊が迫っていることを知らされた宮古島の人々は、大騒ぎとなります。
この一大事を知らされた島の重役や長老たちは、この事実をどうするべきか、会議で話し合います。何しろ、この一大事を東京の大本営に伝えたくても、通信施設を持っていなかった宮古島。とはいえ、この事実をいち早く伝えなければ、国が亡びるかもしれません。
本島とは遠く離れた宮古島の人々が出した答えは、通信施設を持つ石垣島へ、この情報を知らせるというものでした。
宮古島トライアスロンをはるかにしのぐ厳しい道のり
国の一大事を伝えるための大切な使者として選ばれた5人の漁師たちですが、その道のりは非常に過酷なものでした。
現在、宮古島といえば、例年4月中旬ごろに行われる宮古島トライアスロンが有名ですが、この宮古島トライアスロン大会ですら、スイム3㎞、バイク157㎞、ラン42.195㎞というもの。
バイクの代わりとしてサバニ(ボート漕ぎ)が加わったものの、五人がたどった行程の過酷さは、想像を絶するものでした。170㎞もの距離を約15時間にもわたって船をこぎ続け、やっとの思いで石垣島の東海岸にたどり着くと、今度は、通信施設のある八重山郵便局を目指して、険しい山道を30㎞歩き続けます。
彼らのこうした働きによって八重山郵便局へ持ち込まれたバルチック艦隊接近の一報は、すぐに、那覇の郵便局本局へ電信として伝えられ、さらに、沖縄県庁を経由し、東京大本営へと伝えられることになりました。
数時間の差によって明暗を分けた久松五勇士と信濃丸
命がけで日本の危機を伝えるために石垣島へと渡った五人の漁師の存在は、信濃丸の存在によって永らく歴史から消し去られてしまいます。
信濃丸とは、もともとは日本郵船の貨客船なのですが、日露戦争中には、仮装巡洋艦として航行していました。そのため、国の危機を知らせるために宮古島から5人の漁師たちが石垣島へと渡っていたその時も、信濃丸は日本海沖を航行していました。
歴史上では、長い間、バルチック艦隊を発見し日本海海戦における日本海軍の勝利に貢献したとされてきたのは、信濃丸の方とされてきました。ところが、通信施設を持たない島から日本の危機を伝えようと海を渡った漁師5人と信濃丸のその後の評価は、あまりにも違い過ぎます。
この明暗の決め手となるのは、ほんの少しの時間差でした。漁師5人がバルチック艦隊発見の一報を八重山郵便局へと持ち込んだのが、5月27日午前4時。これに対して、信濃丸がバルチック艦隊と遭遇したのが、午前4時45分。
巡洋艦として走行していた信濃丸は、バルチック艦隊に遭遇した直後に、三六式無線機を使い、「敵艦見ユ」との通報を送信します。
このわずかな時間差が、歴史上で信濃丸と漁師5人のその後の評価を分けた運命の分かれ道でした。
久松五勇士として顕彰された5人の漁師たち
久松五勇士の勇気あるこの行動は、その後も、長い間、歴史上に登場することはありませんでした。
彼らの功績が注目されるようになったのは、それからしばらくたった、昭和初期のこと・・・。
中等国文教科書の「遅かりし一時間」と題する記事によって、ようやくその偉業が認められた久松五勇士は、その後、沖縄県知事などから顕彰され、一躍時の人となります。
彼らの偉業をたたえる記念碑は、久松漁港の裏手側にあります。建立された場所こそあまり目立たないものの、国の危機を救うために命を懸けた彼らの行動を知り訪れる人の姿が、今も後を絶ちません。
久松五勇士顕彰碑
- 住所:沖縄県宮古島氏平良久貝243
- 電話:0980-73-2690
- URL:http://www.city.miyakojima.lg.jp/kanko/annai/sisetsu.html