沖縄では沖縄戦の歴史にふれる戦争歴史関連施設が多数あります。どの施設も沖縄戦によって犠牲となった戦没者の慰霊および沖縄戦について知ることができる場所で、70年以上前の沖縄で実際に起きた戦争の姿を学ぶことができます。
沖縄平和祈念公園はどんな場所?
国定公園に指定されている沖縄平和祈念公園は、沖縄戦跡国定公園の一部です。
沖縄戦の中でも最も悲惨な戦地となった糸満市および八重瀬町にまたがる公園で、園内には平和祈念資料館、平和の礎、沖縄平和祈念堂、各種慰霊塔などがあります。
平和祈念資料館は沖縄戦に関する歴史を、パネル資料や貴重な展示品とともに学ぶことができます。
沖縄平和祈念堂には巨大な沖縄平和祈念像が安置されており、沖縄を訪れる修学旅行生の平和講習会場として使用されます。
平和の礎は、沖縄県内に多数設置されている慰霊碑とは違った性質を持っているのが特徴です。
一般的な沖縄の慰霊碑は特定の地域や組織が主体となり、関係する戦没者を慰霊する目的で建立します。ところが平和の礎は国籍・人種・所属などに関係なく、沖縄戦で死亡したすべての戦没者が慰霊の対象です。
そのため県外の戦没者名も多数ありますし、外国人戦没者も刻銘されています。
- 住所
- 沖縄県糸満市摩文仁444
- 見学
- 原則自由見学
※平和祈念資料館および沖縄記念平和堂は開館時間の設定あり
- 施設入館料
- 原則無料
※平和祈念資料館および沖縄記念平和堂は施設入館料が必要
ひめゆりの塔はどんな場所?
沖縄平和祈念公園と同じく、沖縄戦跡国定公園内にあります。
ひめゆりの塔は、ひめゆり学徒隊として従軍し犠牲となった多くの女学生を慰霊するために建立された慰霊碑です。
もともとは那覇の陸軍病院などで活動していましたが、沖縄戦末期になるとひめゆり学徒隊が招集された部隊も解散命令が下り、女生徒たちは戦火を逃れ糸満にある壕に避難します。
その壕にアメリカ軍が手りゅう弾を投げ入れたため、壕内にいたほとんどの女学生が死亡します。
手りゅう弾による攻撃を運よく逃れても、地上に出た瞬間に銃撃された犠牲者もいたため、ひめゆり学徒隊の生存者はごくわずかしかいません。
多くの女学生が犠牲となった壕に建てられたのがひめゆりの塔で、慰霊碑建立から約30年後にはひめゆり学徒隊が体験した沖縄戦の歴史を学ぶ「ひめゆり平和祈念資料館」ができました。
- 住所
- 沖縄県糸満市字伊原671-1
- 見学
- 9時~17時25分
- 施設入館料
- 原則無料
※ひめゆり平和祈念資料館は施設入館料が必要
対馬丸記念館はどんな場所?
対馬丸記念館は、那覇市内にある戦争関連施設です。
対馬丸は、那覇市内にあった8校の国民学校生徒(県内の一般疎開者を含む)1661名が、戦争が激化する沖縄から本土に疎開するために乗船し、アメリカ軍によって撃沈された対馬丸とその戦没者に関する施設です。
学童疎開は学校単位で行われるのが一般的だったため、対馬丸撃沈による被害者は、疎開先に向かう子供たちがほとんどでした。
対馬丸撃墜で死亡した子供たちの遺族には、その後 訃報連絡とともに事件に関する かん口令が日本軍から言い渡されました。(かん口令とは、物事を口外しないよう命令が下される事です。)
そのため対馬丸撃沈事件を口にすることは、一切許されませんでした。さらに事件から49日後には、10・10空襲によって那覇の街は無差別攻撃を受け焼け野原になります。
そのため長い間語られることがなかった対馬丸事件ですが、「事件を風化させまい」という遺族や生存者などの強い想いによって設立されたのが、現在の対馬丸記念館です。
- 住所
- 沖縄県那覇市若狭1-25-37
- 見学
- 9時~17時
※木曜および12月31日~1月3日は休館
- 施設入館料
- 小学生/100円
- 中・高校生/300円
- 一般/500円
※20名以上の団体は割引あり
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号はどんな場所?
2020年4月4日より当面の間、南風原壕群20号壕は臨時休館となっています。見学再開などについては、管理する南風原町立南風原文化センター(098-889-7399)へ直接お問い合わせください。
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号は、那覇市内で活動していた沖縄陸軍病院が空襲によって焼失したことにより南風原に作られた約30ある横穴壕のことです。
横穴壕が作られるまでは、焼失した沖縄陸軍病院の代替施設として南風原国民学校が使われていました。
ところが米軍による機銃掃射や空襲が激しくなると建物内での医療行為が困難になったため、南風原地域に作られた約30ヶ所の横穴壕に沖縄陸軍病院を移転させます。
沖縄戦末期の1945年3月には約350人の医療従事者が壕内施設に配置され、さらにひめゆり学徒隊222人も18人の教員とともに看護補助員として動員されました。
現在南風原壕群のうち20号壕の一部が、沖縄戦関連施設として公開されています。
見学できるのは西口から東口の約70mで、壕内には米軍の火炎放射器によって燃やされた杭木や天井、手術室、病室などがあります。
壕の外にはひめゆり学徒隊の生徒たちが命懸けで飯炊き用の釜場に向かう「飯あげの道」もあり、実際に通ることもできます。
- 住所
- 沖縄県南風原町字喜屋武257番地(南風原町立南風原文化センター)
- 見学
- 【ガイド有り】3日前までの事前予約制
- 水曜日および12月29日~1月3日は休館
- 1度に壕内に入れる人数は10名以内に限定
- ヘルメット着用厳守(無料レンタルあり)
- 懐中電灯使用(無料レンタルあり)
- 1グループあたりの見学時間は20分以内
- 施設入館料
- 南風原町内の小中高生で20名以上の場合は無料(個人は50円)
- 南風原町内:一般個人/200円、20名以上の団体/150円
- 南風原町外:一般個人/300円、20名以上の団体/250円
※小中学生個人/100円、団体/50円
※高校生個人/200円、団体/150円
旧海軍司令部壕はどんな場所?
引用:旧海軍司令部壕
旧海軍司令部壕とは、1944年に日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕となっています。
450mのカマボコ状の壕の中に、司令官室・暗号室・医療室・発電室・作戦室などがあり、当時は4000人もの兵が収容されていたそうです。
旧海軍司令部壕は、日本海軍が組織的戦闘の終焉を迎えた場所と言われており、内部は当時のまま保存されています。
数回にわたる遺骨収集の末、現在では内部300mが一般公開されています。
壕内部では、手榴弾を使い自決した時に飛び散った破片の跡や、大田司令官によって司令官室の壁面に書かれた「大君の御はたのもとに死してこそ、人と生まれし甲斐ぞありけり(天皇陛下の為に死ぬことが出来てこそ、人として生まれた甲斐がある)」という愛唱歌などが、そのまま残されています。
- 住所
- 沖縄県豊見城市字豊見城236番地
- 見学
- 年中無休9:00~17:00 (最終受付: 16:30)
- 施設入館料
- 大人(高校生以上):600円
- 小人(小中学生):300円
- 未就学児:無料
チビチリガマ
引用:読谷村観光協会
読谷村にあるチビチリガマは、読谷村波平区の住民の多くが避難したといわれる自然壕(防空壕)です。
当時の国民は、「アメリカ兵は鬼畜だ(人とも思えないような残虐な仕打ちをしてくる)」と国から教育を受けていました。その為、こちらのガマ(自然壕)では肉親相互が殺しあう「集団自決」が行われた場所なんです。
避難者140人中、何の罪もない住民83名が、この場所で非業の最後を迎えたと言われています。
後に、犠牲者の死を悼み【チビチリガマ世代を結ぶ平和の像】が建てられました。
国内で唯一、地上戦に一般住民が巻き込まれた沖縄ならではの戦争関連施設だと言えます。
- 住所
- 読谷村字波平1153
- 見学
- 自由見学
- 入壕
- チビチリガマへ入壕することは遺族会の意思により禁止されております。ご了承ください
戦死者・マラリア死亡者慰霊の碑はどんな場所?
引用:総務省
沖縄戦では、激しい機銃掃射や空襲などによる戦死者だけでなく、戦争が原因で病気となり命を落としていった人も数多くいます。
そのうちの1つに、悪性マラリアによる死者が含まれます。沖縄戦では劣悪な環境と栄養失調によって悪性マラリアに感染し、死亡した人は多いです。
こうした病死者は戦争が原因で死亡したと認められるのですがそのことを後世に伝える慰霊碑や資料館は沖縄県内にほとんどありません。
鳩間島にある「戦死者・マラリア死亡者慰霊の碑」は、沖縄県内でも数少ない「沖縄戦が原因の病死者を含めた慰霊碑」です。
鳩間港のすぐそばにあり、100名を超える戦没者およびマラリアによる病死者が慰霊されています。
港の桟橋の駐車場裏に建立された小さな慰霊碑ですが、暴力だけでなく病気によっても命が奪われていく戦争の恐ろしさを後世に伝える知る貴重な場所です。
- 住所
- 沖縄県八重山郡竹富町鳩間
- 見学
- 自由見学
- 施設入館料
- 無料
【まとめ】沖縄には様々な戦争関連の追悼施設がある
いかがでしたか?
上でもお話しした通り、沖縄は国内で唯一 地上戦に巻き込まれた地となっており、沖縄県の至る所に戦争関連の追悼施設や、未だに遺骨の収集作業が続いている自然壕などが存在します。
旅行や修学旅行で、一度は「平和祈念公園」や「ひめゆりの塔」へ訪れた事があるという方は多くいらっしゃるのですが、その他の施設にまで足を運んだことがある方は中々いらっしゃいません。
コロナウイルスが落ち着き、沖縄へ旅行に来られる際は、是非 戦争に関する施設を巡り、戦争と平和について一度考える機会をもってみてください。
戦争体験者の殆どがご高齢になられている今、どのように後世に戦争体験談を語り継いでいくかが沖縄での課題となっています。 体験談を聞くことが出来る貴重な機会があれば、迷わず参加してみてください。